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フランツ・ドフラインと相模湾の深海動物

藤田 敏彦(国立科学博物館動物研究部)

 日本の動物学の黎明期である明治時代には,日本を訪れた西洋の生物学者によって多数の日本産動植物が持ち帰られ,それらの分類学的な研究が行われた.それらの標本は各国の博物館に保管されている.これらの標本の多くは,その当時に研究されて以降長らく日の目を見ることがなかったが,ようやく近年になって日本の研究者自身によってこれらの標本の再研究が進められるようになってきた.シーボルトなどと違ってあまり有名ではないかもしれないが,日本を訪れたそのような生物学者の一人にフランツ・ドフラインがいる.

 フランツ・ドフライン(Franz Doflein, 1873-1924)は,原生動物学,アリジゴクの生態,十脚甲殻類の分類などの研究で知られるドイツの動物学者である.お雇い外国人教師として日本を訪れたことのあるルートウィヒ・デーデルラインと学生時代にストラスブールで知り合い,その影響を強く受けた.ミュンヘンにあるバイエルンの国立動物学博物館で仕事を始めたドフラインは1904年から5年にかけて東アジアへの旅行を行った.この時,中国,日本,スリランカを訪問し,その旅行について「東亜紀行」(Ostasienfahrt, 1906)という全511ページとなる一冊の本にまとめている.この本には日本の自然や風土ばかりではなく,社会や人々の生活についても細かい観察が書かれているが,その中で大きく取り上げられているのが,相模湾である.20年前のデーデルラインによる調査で相模湾が世界でも有数の海産動物の宝庫であることが発見されたことがきっかけとなって油壷に設立された東京大学の臨海実験所についてや相模湾の特徴について触れるとともに,ドフライン自身が行った相模湾の深海動物の調査とその結果についても詳しく述べられている.

 記録によると,1904年(明治37年)9月4日にドフラインは三崎の臨海実験所を訪れ二ヶ月弱滞在した.その間,汽船を借り切って三崎の周辺を中心として相模湾深海動物の調査・研究を本格的に行い,莫大な数の魚類や無脊椎動物の標本を採集したが,ただ珍しい動物標本を収集しようとしただけではなく,生態学的,進化学的な視点ももっており,海水温の鉛直構造を調べるなど相模湾の海洋環境の調査も実施し,相模湾の動物相の豊かさの謎を明らかにすべく研究を進めたのである.この相模湾深海動物を中心とする採集標本はドイツに持ち帰った後,それぞれの分類群の専門家にゆだねられて研究が進められ,その研究成果は全4巻の東亜博物誌(Beitrage zur Naturgeschichte Ostasiens, 1906-1914)として公表され,“ドフライン・コレクション”に基づいて日本の海産動物,特に相模湾の深海動物の記載が多数行われた.このように,ドフライン・コレクションは多数のタイプ標本を含んでおり,十脚甲殻類や刺胞動物など数多くの分類群において,分類学的な研究を進める上で,これらタイプ標本の再研究の必要性が浮かび上がってきている.ドフライン・コレクションの重要性は,メクラエビPrionocrangon dofleini Balss, 1913(十脚甲殻類),イボテヅルモヅルAstrocladus dofleini D單erlein, 1910(クモヒトデ類)など,このコレクションの標本に基づき記載された日本産海産動物の学名にドフラインの名前が使われたことによっても知ることができる.

 現在,ドフライン・コレクションはミュンヘンの国立動物学博物館,ベルリンのフンボルト大学自然史博物館などに保管されており,現代のレベルの分類学的な知識,技術を駆使しての再研究が待たれている.また,国立科学博物館では2年前より相模湾の海産動物相とその経時的変化に関する調査を開始しているが,相模湾の動物の分類学的研究を進める上で,多数のタイプ標本を含むドフライン・コレクションは非常に重要な位置を占めている.さらに,タイプ標本以外も含めて,相模湾の動物相を本格的に研究したドフライン・コレクションは100年前の相模湾動物相の記録として大きな価値を持っており,ドフライン・コレクションの全貌を明らかにすることによって過去の動物相を知ることができ,現在との比較を通じて,環境の変化などに伴う動物相の長期にわたる変遷といった重要なテーマへの貢献も期待される.このような,博物館標本の価値とその利用を重点に掲げた研究は,博物館が主体となって行う分類学のプロジェクト研究のケーススタディーとなろう.